素晴らしい作品の感想なんて書くものじゃない、なにを書いたって陳腐なだけ。
分かってるけど、いまここで自分が感じていることを書き記しておくために…
ラヴェルの晩年10年を描く。あくまで小説で、文学作品ではあるが、ラヴェルの参考文献をもとにかなり忠実に描かれている模様。
帯には、まるで音楽みたいな小説、とある。割愛されすぎていて、泣きたくなる。エシュノーズは確かにとても淡々とリズミカルに書いている。うん、ラヴェルの音楽みたいだ。どんなに悲しみや、孤独を湛えていても インテンポで、一見、いつもと変わらない風貌をしていて、むしろ心配するこちらがからかわれるんだ。こっちまでセンチメンタルに…メランコリックに弾いてしまうと、全て台無しになってしまう。最後の1ページは、突然すぎて、当然続きがあるのだと思って読んでいたから心の整理つかず。そのままの調子で唐突に終わるところも、ラヴェルの音楽みたい。
ラヴェルは、機械が好きで、音楽のインスピレーションも機械が動く様から得ることが多かった。ラヴェルは、書いてあること、特にテンポ!絶対厳守してほしかった。(ヴィトゲンシュタインの手紙「演奏家は奴隷ではないのだから」に対してのラヴェルの返信→「演奏家 は 奴隷 です」、笑ったw)
ラヴェルの最期どんどん衰弱する様子は、読んでいると悲しみに胸が押しつぶされる思いしかないが、何よりもラヴェル自身がどれだけ辛かったか。
ラヴェルは、左手のための協奏曲と違って両手の…G majorの…協奏曲は、自分のために書いた。自分が弾き振りしたくて。自分の理想をたくさん詰め込んで書いたんだ。。弾きたくて、ショパンやリストのエチュードを手壊しそうになるまで頑張って練習した、結局体調が優れなくて弾けなかったんだけどね。
もう十分、たくさんの作品を残したじゃない、というマルグリットロンに対し、「何を言ってるんだ、自分は何もしてない、まだ何も書けてない、自分がやりたいことはまだ何一つできてない」と言っていたラヴェル、そのうち仲の良い友人には、涙を流しながら「自分は少しは良い作品を残せたと思う、そう思わないか、」と自分に言い聞かせるように言うようになるラヴェル。
ジャンエシュノーズはラヴェルに誰よりも寄り添って、でも絶対に感情的にならずに、でもラヴェルがいまここに生きてるかのような現実味、躍動感を持って描いてくれた。
演奏も、文学作品も、”圧倒的なもの”に共通しているのは 作品自体は素朴で、シンプルだということ、
でもどれだけ派手な、人目を引く、何か…よりもずっと、受け取り手の心震わすのは何故だろう。
父にこの本の話をしたら、ラヴェルってフレディみたいだね。と。
確かに。ラヴェルも結婚せず、色々な憶測立てられて煩わしいこと沢山あったのかもしれない。
潔癖で、お洒落で、食事は1人で壁に向かって取り、好んで付き合っていたのは音楽を全くわからない近所の青年(「ショパンって知ってる?」「知らないです。それは音楽家ですか?」「そうなんだよ、イタリアで有名な作曲家なんだよ。」の下り、エシュノーズの作った話だろうが、本当に本人が言っていそうでクスッとしてしまった)。
最高の名声を得て、今でも大人気、数々の名曲を残し、
でもどこまでもひとりだった作曲家の儚い晩年。
孤独が嫌いなの?
好きなんだよ。きっと。